早すぎる旅立ち。
2003〜2004年の連覇に大きく貢献した柳想鐵選手がすい臓がんの闘病の末に、ソウル市内の病院で亡くなった。49歳。
ステージⅣとの報道は出ていたが昨年の開幕戦、横浜FM対G大阪にあわせて日産スタジアムを訪れていた。
これが結果的に最後の来日となってしまった。この開幕戦は、コロナ禍が本格化する直前のことで、まだスタジアムでの観戦人数や応援声出しの規制もなかった。今のところ、サポーターが彼の名前を大きな声で呼ぶことができた最後の試合となっている。
強靭。一言で言えばそんな選手だった。強く猛々しい、古き良き韓国代表を体現するような選手だった。
来日したのは99年。韓国で建国大学、蔚山現代というエリートコースを経て、マリノスに1回目の入団となる。自身にとっては初めての海外挑戦だった。
マリノスには今も韓国籍選手の入団があるが、そのはしりがユサンチョルさんだった。とくに2000年は22試合で17得点とゴールゲッターとしてその名を轟かせ、ステージ優勝にも大きく貢献した。
2年在籍の後にドイツ移籍を狙ったが、01〜02年は柏レイソルで活躍。日韓W杯にも出場し、母国の上位進出の一翼を担った。柏にはホン・ミョンボ、ファン・ソンホンがいて韓国代表トリオとして対戦チームから恐れられた。韓国代表として戦ったW杯ではキャプテンマークも巻いていたはずだ。
当時、闘将といえばブラジルのドゥンガのイメージ。またドイツのGKも闘争心の塊のようなカーンが有名だったがユサンチョルも闘将として名を馳せていた。
個人的な思いを正直に言えば、日本代表が16強で敗れたあとだったので韓国代表が上位に行くのを喜んで見ていたわけではないのだが、柏の3選手の裂帛の気迫が凄かったのは今も覚えている。あと安貞桓な。
03年、横浜FMの監督に就任したばかりの岡田武史監督がユサンチョルに復帰を打診したらしい。柏を退団していたユサンチョルは、Kリーグの蔚山に戻っていたが、この誘いを受ける。
しかし起用されたのはまさかの右サイドバックだった。
まさかの、と書いたが、当時サポーターでもなかった私は、ユサンチョル=右SBのイメージは意外に強い。
入団に合意していたとされる、補強の目玉であるセレソンのカフーが待ち侘びても、待ち侘びても来日してくれない。レギュラーの波戸康広はケガで離脱していた。
そんな巡り合わせで、ストライカーとして日本に来たユサンチョルはついに右サイドバックの切り札となる。
03年は1stステージ途中の加入ながら17試合、04年も19試合に出場して連覇の立役者の1人と言っていいだろう。
04年を最後に再び韓国に戻ったが1年で現役を引退した。
その後、大田、全南、仁川などKリーグの複数チームで監督を務めたが、仁川在任中にガンを患って途中退任したのが19年の10月のことだ。
その後、がんの進行がどうだったのかは、本当かどうか分からない韓国の報道でしか知れなかった。ステージⅣだと聞いてはいたが、回復を見せているとの話もあった。
だが、すい臓がんは、がんの中でも予後が悪く、切除しても再発の恐れが高いものとして知られている。
それだけになおさら、昨年の電撃来日は驚異的だった。
20年2月は、まだギリギリ多くのサポーターが海外に渡航できた。6年ぶりのACLで、相手は韓国王者の全北現代戦。スタジアムには「がんばれ、ユサンチョル」の横断幕が掲げられた。
これは韓国メディアでも大きく報じられ、本人の目にも入ることとなったようだ。
それからわずか1週間余り。
リーグ王者となったマリノスの映えあるリーグ開幕戦の日産スタジアム現れたのは、病床にいたはずのユサンチョル、その人だった。
すでにがんによる痛みなどで、一人で歩ける状況ではなかったと聞くが、元気な姿に見えた。
背番号8、マリノスで背負った思い出の番号が入ったチャンピオンユニフォームを手に取る。サポーターへの挨拶。私は絶対に諦めない、選手としてではないが再びサッカーの舞台に戻ってくる。だから皆さんも健康でいてくださいというコメントを残している。
最後まで諦めずに戦ったのは間違いがない。
この吉崎エイジーニョ氏のコラムによれば、13回に及ぶ抗がん剤の徹底した治療の末に、すい臓がんは消え去っていたという。だが脳への転移が直接的な原因になっていたとある。
マリノスでも確かな足跡を残して、今なお「兄さん」と慕われるユサンチョル氏。
韓国の歴史的なW杯初勝利に名を刻み、最後まで英雄として貫いた人生にあらためて感謝とご冥福をお祈りしたい。
あの時の優勝メンバーがまた早くして旅立ってしまったが、こんな知らない私たちでも語り継いでいくことはできる。
コロナが落ち着いたら諸先輩方の兄さん話を聞きたいと思う。
ユサンチョルさん、おつかれさまでした。ありがとうございました。ぜひ空からマリノスのこと見守ってください。