マリノスにシャーレを 2021

横浜F・マリノスの話題を中心に、いちサポーター目線で愛を語ります。いちお3級審判、不定期で審判やルールネタも。サッカー少年2人の父。

小林祐三があのとき残してくれたもの

J1鳥栖の小林祐三がプロ選手としてのキャリアに終止符を打つ決断をした。35歳、J1通算364試合出場。鳥栖の黒い髪の彼のプレーを見たのは決して多くはない。新主将になった今年、リーグ戦は4試合の出場にとどまった。だからといって、プロ引退は驚かされた。クリアソン新宿に本拠を置く関東リーグのチームに籍を置くという。同チームの運営会社に入社して、「会社員」としてセカンドキャリアをスタートさせる。

今、本稿を書きたくなった理由

このような異質の選択をする彼、小林祐三の節目に際して、振り返りたいのだ。
彼が「泣き明かした」というマリノスとの契約満了から、4年の月日が流れた。もう彼のマリノス時代を知るのは、喜田拓也と松永成立コーチくらいのものだろう。プロサッカー界における4年の月日はそれほどまでに早い。
だから小林祐三へのリスペクトを込めて振り返りたい。パンゾー、背番号は13。ついにプロ生活17年間、3クラブでついに13番だけでまっとうした。
彼が全盛期を過ごした横浜に残したものとは。

右サイドバックに職人・小林祐三あり

2013年、横浜FMは開幕から終始優勝争いを繰り広げた。リーグ優勝こそならなかったものの天皇杯では優勝。このころのマリノスの最終ライン4名は、CBに中澤佑二、栗原勇蔵。左はドゥトラで翌年から下平匠が加わる。そして右サイドバックに君臨したのが小林祐三。もう絶対的に小林祐三だった。
「さあいけ小林祐三!」という勇ましいチャントの割に、冷静沈着でまずは守備ありきの時代のマリノスを1対1で支えた。比類なき1対1の強さ。センターバックでプロ入りした経歴だから対人守備が強いのもうなずけるのだけど、圧倒的な突破力を誇った広島の左の槍、ミキッチを完封できたのはあのころのパンゾーだけではなかったか。
本人も述懐していたように、2010年代中頃のパンゾーは日本代表入り待ったなしだったと思うし、世が世ならもっと評価されるべきだったのではないかと今でも思う。

在籍6年間で、リーグ戦は204試合あったわけだが、うち187試合に出場。「君臨」という言葉が大げさではないことがお分かりいただけるだろう。

多才でクレバー、クールそうに見えて

トレードマークは美容師やテクノアーティストを思わせるような鮮やかな金色の髪だった。
音楽に精通しているのは有名で、ファンイベントでDJをつとめてホールを熱狂させたり、ファン感謝デーにはパンゾーセットリストのBGMが流れたり。

そのうえサッカー選手をやらせると、べらぼうに頼もしい。この2〜3年、攻撃的な横浜FMなどと言われるがパンゾーが右サイドを征服していたころの横浜はまちがいなく「堅守」を売り物としていた。リーグ最高得点は目指したこともなかったが、最少失点には誰もがこだわっていたように思う。

クールそうに見えていた。見えていたが、熱かった。同年代に中町公祐や兵藤慎剛といった同じくマリノスを大切にしてくれる選手がいた。彼らが発案したファンサービスやグッズが具体化したことは一度や二度ではない。マリノスをもっと魅力あるクラブにする。日産スタジアムを満員にする。そんな動機がはっきり伝わってきたのでファン、サポーターもそれに呼応していた。

中町は2012年に福岡から加わり、兵藤は08年から生え抜きでマリノスにいたころだ。リーグタイトルを惜しくも逃した2013年、翌年の元日に天皇杯を取った。これが彼らにとって最初のタイトルであり、パンゾーには唯一のタイトルとなる。

マリノスでプレーすることに誇りを感じている選手たちがいた。「マリノスへのロイヤリティ」という言葉が発せられたのはもう少しあとのことだったが、愛は強くて、愛は盲目だ。

その直後にシティフットボールグループとの提携が始まる。古き良き日産自動車F・マリノスから、シティグループの横浜F・マリノスへと転換が始まったのがこのころだ。そのことが彼にとってよかったかどうかは分からない。もしかしたら、強化方針の転換がなければ、もう1年、2年先に彼の退団はずれ込んでいたかもしれない。

もしかしたら、は意味がない。事実としては2016年をもってマリノスは小林祐三に契約満了を伝える。その年もリーグ戦33試合に出場した小林祐三に、である。

ラストマッチでの凛としたたたずまい

2016年の最終節、ソールドアウトした埼玉スタジアム。最終戦にかけつけた浦和サポを前にマリノスに割り当てられたのはほんの一角。そこに小林祐三のマリノスラストマッチを見届けようとファンはぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていた。この最終戦直前に、本人の意思で契約満了の旨は公式に発表されていた。

リーグ通算300試合の節目で、彼はいつものように淡々とプレーして、そして試合後にスタンドに頭をさげて、泣いた。
恨みつらみは一切なかった。感謝の言葉しかなかった。

プライドも、悔しさも、悲しさも、出さずに。ないわけがないのに。それらが表情やコメントからかすかにだけ伝わってくるのが余計にカッコよかった。
うまくいっているときは誰だってそれなりだ。人の本性はこういうときに出る。

プロの世界、実力の世界、客観的な判断という意味は理屈では分かるが、感情は受け容れられない。そこまでの貢献度ばかりを考えていては、チーム編成など成り立たない。

一つのクラブで選手としての生涯を全うするストーリーの美しさはまちがいなくあるが、自ら選ぶ移籍は裏切りなどではなく、クラブ側が契約更新を行わないことも決して非道非情ではない。

それでもいろんなマイナスな思いは頭をよぎった。少なくとも私の頭には。

でも小林祐三は感謝だけを残して、横浜から旅立っていた。

小林祐三の「前と後」で変わったこと

その後も、今年もたくさんの別れが起きている。小林祐三はついにプロ選手としての自らのキャリアに別れを告げる決断をした。

横浜FMも一気に選手の入れ替わりが進んだ。レンタル中の選手を除けば、パンゾーの所属時を知るのは喜田拓也だけになっていることがその移り変わりの速さを物語る。

鳥栖での退団セレモニーの様子を見た。変わらず、小林祐三は清々しく正々堂々と戦い、あまりにも大きなリスペクトと惜別を受けたことが分かる。鳥栖ファンよりも先に応援していた者として少しだけ誇らしい。

横浜でも、その後も、悲しい別れもあったし、不快な思いを感じたこともある。栗原勇蔵のような幸せな別れは、ごく一部、あまりにも一握りだ。

だがあの日の小林祐三の凛々しい態度のおかげで、移籍をめぐる私たちの捉え方は一段階成熟したのだと確信している。いや、正確に言うと許しがたい出来事もあったのだけど、だいぶパンゾーが中和してくれた気はしている。

去る選手へのリスペクト。縁を与えてくれたチームへの感謝。選手一人ひとりに人生があること。その決断にいたる背景をファンや一般人が知るはずもなく、断片的な情報だけで人間性やクラブの名誉を毀損するようなことはあってはいけない。

感情的に腹が立ったり、ある片方の側から見れば不利益なことだったりするとしても。



それくらい彼の姿は誇らしかった。彼のおかげで自分の愛するクラブへの愛が深まった。疑うことがなくなった。



今も色褪せない。これからも彼の人生が素晴らしいものであるように。まだまだもっと。


さあ行け、小林祐三。