マリノスにシャーレを 2024

横浜F・マリノスのスポンサーを目指して脱サラした頭のおかしい3級審判のブログです

あの文豪がJリーグ再開を待ちわびたら(その4)

Jもねぇ、センバツもねぇ、プロ野球もねぇ、欧州サッカーもねぇ、ついには五輪も一年延期。おら、そんなの嫌だ〜。一喜一憂どころか憂うつなニュースばかりが重なっていくけれど、嘆いていても仕方ないので、来るべきリーグ再開の様子を書いてみよう。 ちょっと前にヒットしたもし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら をリスペクトして、ふざけてみる。

 

今回は、これまたリクエストをいただいた「かも崎潤一郎」。私はただのエロい作家という知識しかなかったのだが、サポーターにとってはなかなか生き方を考えさせられる名著があった。このシリーズは再開のその日まで続くかもしれないし、あるいは続かないかもしれない。

 

痴人の愛

痴人の愛

 
痴人の愛

痴人の愛

  • 発売日: 2015/09/21
  • メディア: Prime Video
 

 

痴サポの愛

私はこれから、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの「推し」の事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたい貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。ことにこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、日本で育った選手が続々と海外へ羽ばたく、いろんな主義やら戦術やらが這入って来る、ダゾーンマネーも加わると云いうような時勢になって来ると、私のような事例ももっと増えるだろうと思われますから。


考えて見ると、私たちの関係は既にその成り立ちから変っていました。私が始めて現在の私の「推し」に会ったのは、八年前のことになります。何月の何日だったか、くわしいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼はみなとみらいの近くにあるマリノース・タウゥーンと云う練習場でプロを目指していたのです。彼の歳は十六でした。だから私が知った時はまだそのタウゥーンに来たばかりの、ほんの若僧だったので、一人前の選手ではなく、それの見習い、―――まあ云って見れば、プロになれるかどうかの卵に過ぎなかったのです。

 

その彼は、当時から仲間に「バカウケ」と呼ばれていたかどうかは定かではありませんけれども、私は最初からケイタと呼んでいました。確かに煎餅のような顔立ちと言われるとその通りなのですが、ケイタと片仮名で、あるいはKEITAと書くとまるで西洋のトップクラスの選手のようだ、とそう思ったのです。

 

瀬谷と聞くと、横浜の秘境と思われる方が少なからず居ますが、二俣川→瀬谷→みなとみらいというのはえらい出世です。当時の私はというと、質素で、真面目で、凡庸で、何の不平も不満もなく日々の仕事を勤めているそんなごく普通のサラリー・マンであったと思います。月給の一部を使って試合のチケットを買う他はこれといった趣味もなかったのですが、実はトップチームだけでなくユウスも追いかけると旅費だけで結構高くつきます。でも構いやしません、推しが欲しかったんだから。

 

この子はきっと上手くなる、伸びると信じています。けれどもユウスの沼の入り口はそれだけではありません。単にプレーが好み、顔が好み、誕生日が一緒だった、なんだっていいんです。推しの理由なんて後からいくらでもあります。だから、ケイタがプロになった時はそりゃあ喜びました。ユウスの頃からマリノース・タウゥーンでサインを貰っていましたから。

もちろん、ユウスからプロになれる可能性の方がぐっと低いわけです。なれずに大学に行く、サッカーを卒業するならまだ仕方ないですが、念願のトップに上がれたとしても、ものの一年で若くして他チームに移籍させられて戻ってこない子もいます。海外に飛び出していった選手なら多少は救われるかもしれませんがそれでも喪失感は同じはずです。手の届かないところへ行ってしまうことで、こんなにも恋しくなって来るとは? この急激な心の変化は推している自身にも説明の出来ないことで、恐らく恋の神様ばかりが知っている謎でありましょう。いつの間にか立ち上って、部屋を往ったり来たりしながら、どうしたらこの恋慕の情を癒やすことが出来るだろうかと、長い間思い悩んだこともあります。

 

そんな時は、チーム全体を推すように発想を変えてしまうことで克服できることがあります。何年か前にとんでもない裏切り者がいた時は、「俺は(あたしは)マリノス推しだ」と自分に言い聞かせる人が増えたことをはっきり記憶していますね。

 

推し生活の中で、もっとヤキモキするのはケイタが試合に出たり出なかったりすることでしょう。幸い、というか彼の努力の甲斐と、上司に恵まれたこともあって高卒の年からかなりの試合に出してもらっていました。先発も少なからずありました。これはすごいことです。ただ18歳で先発の座を射止めた割には、全然レギュラァという感じではないのです。

チームは次々に有力な選手を補強してきます。マルティノス、バブンスキー、ユンイルロクなども。仲川輝人の覚醒もチームとしては良かったですけどケイタにとっては目の上のタンコブでした。マルコス・ジュニオールも最初はサイドで厄介でした。で、彼を中央に変えて2ボランチにしたことで快進撃が始まった昨年も、ようやくケイタに追い風と思ったら、極め付けはマテウスでしょう! それぞれの選手に怨みつらみは勿論ないですが、私の心は補強の度にかき乱されていくのです。悲憤に充ちた、私の心の底。

 

昨年最終戦で、ケイタは優勝を決定づけるダメ押しのゴールを決めました。チームの有終の美を飾るメモリアルで、しかも彼がやり切った素晴らしき得点でした。でもあれで、本当に私のケイタは、遠くに行ってしまったのです。嬉しいような、別れが近づいてしまったような、複雑な思いでした。

 

推しなんて辛いことの方が多いです。推しにグイグイ迫るサポーターの姿を見ると嫉妬もあるし、でも心地よく感じる距離感は人それぞれです。選手のプライバシーには立ち入るべきでないし、練習や調整に悪影響を与えるようなことは本末転倒。でもSNSで他のサポーターと笑う推しの姿を見ると、私の頭はこうして次第に惑乱され、思う存分に掻きむしられて行くのです。

ユウスの試合に行くため、遠征についていくため、私は仕事を辞めてライフスタイルを変えました。家族とも別離し、部屋には背番号11の入ったキーホルダーや熊のぬいぐるみや、おびただしい数の試合着(ユナフォオムと呼びます)などが堆く積まれています。ケイタと書かれたグッズに囲まれて寝起きし、もはや仕事もこの神聖なる空間でできるようになりました。

 

コロナウィルスが私たちの間に立ちはだかって、暫くが経ちます。これほどケイタから離れたことはこの八年間で一度もありません。サッカーのある日常だけでなく、五輪出場という目標までも遠ざけようとしている憎きウィルス。

 

私のケイタを恋うる心は加速度を以って進みました。もう日が暮れて窓の外には夕べの星がまたたき始め、うすら寒くさえなって来ましたが、私は朝の十一時から御飯もたべず、火も起さず、電気をつける気力もなく、暗くなって来る家の中を二階へ行ったり、階下へ降りたり、「馬鹿!」と云いながら自分で自分の頭を打ったり、空家のように森閑とした日産スタジアムの壁に向いながら「ケイタ、ケイタ」と叫んでみたり、果ては彼の名前を呼び続けつつ床に額を擦りつけたりしました。もうどうしても、どうあろうとも彼に会いたい。彼のプレーが見たい。

 

それが4月4日と聞いたものですから、もうその日まで冬眠してやろうと、テレワークという名の開店休業を続けてきました。ところが事態はなお悪くばかりで今や4月中の試合再開すら危ぶまれています。無観客試合など、私には拷問のようなものです。

 

これを読んで、馬鹿々々ばかばかしいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。

私自身は、どう思われても仕方がありません。でも推すことそのものはどうか嫌いにならないでください。


ケイタは今年二十三になります。でもマリノスケは永遠に小学五年生です。この不変さも悪くないなと思い始めているのです。

 

 

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いやぁ、気持ち悪いですねぇ。変態ですねぇ。

この物語はフィクションであり、私とケイタは実在しないはずで、遠藤渓太選手とはなんら関係のないことを申し添えておきます。ケイタにもっと気持ち悪い会話をさせようかとも思いましたが、ちょっと自分的に無理でした。

 

谷崎潤一郎の「痴人の愛」は、大正末期の1922年に朝日新聞に連載されていたそうです。こんな可笑しな小説を? 後にノーベル賞候補にもなった大文豪ですが、変な性癖があったのは有名なようですね。

 

サポーターになって何年も経つと、またこの暮らしが当たり前になると、つい忘れてしまいがちですが、一般的な眼から見ると十分我々も変態のようです。

ネンチケ、ユニフォーム、アウェイ遠征、そこにかかる時間、カネ、情熱すべて異常なんですよね。それを個の選手に向けるというだけのことです。だけのこと、ではないか笑。ほら、私も痴サポです。

 

今、いきなりそれのやり場が無くなった、奪われたという虚無感の中に我々は居ます。程度の差はあれども、皆、痴サポなのです。だからサッカーが、マリノスを日常に取り戻したいですし、せめてこんな文豪へのひと添えのリスペクトとともに笑っていただけたら幸いです。

 

次回(あるのか?)もお楽しみに。

なににしよっかなぁ。やっぱ短編の童話が作りやすいけどなぁ。痴サポは意義あったなぁ、と一人悦に入ってます。